デザインに神秘的なところはない

2021年6月17日

 デザイン理論の歴史では、デザインは「直観」なのか「科学」なのかという議論が継続して行われてきました。従来からデザインは特別な才能を持ったデザイナーが行うものとされてきましたが、1960年代にデザインを「科学」における思考方法として捉えたのがハーバード・サイモンでした。その後1980年代に入りサイモンの「デザインは科学に立脚する必要がある」という考えを批判したのがドナルド・ショーンです。彼はデザインには神秘的で直観的な側面が残るとしています。21世紀に入り「デザイン思考」はデザイン業界を飛び越え、あらゆる領域でスポットライトを浴びるようになります。しかし、デザインは科学のように形式化できるのか?それとも個人的な直観に依存する神秘的な何かが必要なのか?その答えは宙ぶらりんのままです。        

 そんな宙ぶらりん状態で起こっている問題を鋭く指摘した文章があります。石橋秀仁氏の『「デザイン思考」の神秘と欺瞞』というブログ記事です。

“「デザイン思考」の神秘と欺瞞"という記事

 このなかで石橋氏はデザイン思考そのものはリスペクトしつつ、デザイン思考をめぐる言説を批判しています。(以下、下線部が引用です)

 観察・分析をもとにデザインのコンセプト(概念)を作る作業は文字通り「概念操作」です。いわば言語的な操作、象徴(シンボル)の操作とも言えます。でも、それをプロトタイプというかたちにプレゼンテーション(現前化)するところには飛躍が必要です。(中略)この飛躍は「発想」の際に生じます。「発想」の場としての「ブレインストーミング」(以下「ブレスト」)において飛躍が生じます。

 として、デザイン思考に元々内包されている「飛躍」とそれが起こる「ブレスト」にフォーカスします。 

 ブレストのプロセスは、本人や観察者が細かく分析しようとしても、なかなか解明されないでしょう。その意味で「ブラックボックス」です。(中略)ブレストという「コミュニケーション」はシンボルの交換や操作といった理知的(インテリジェント)な「コミュニケーション」ではないと感じます。イメージ的で、反射的で、身体的で、無意識的で、カオスで、神秘的な「コミュニケーション」です。

 このようにデザイン思考の最も重要な局面である「発想」が神秘的なもので理知的には還元できないとしています。それでもこのような思考方法を取るデザイン思考を西洋社会の新たな動きとして肯定的に捉えます。

 個人の心の中で起こる無意識的・創造的な活動だからこそ、個性的・独創的・属人的な発想につながりやすいのがブレストだと思います。もし、「デザイン思考」に思想的な意義があるとしたらこれです。伝統的西洋思想では「方程式を解くような非属人的・形式的・人間疎外的な手法」を通じて解を導き出すことがよしとされてきました。これに対して、新たに「属人的・非形式的・人間依存的な手法」が「発見」され、「デザイン思考」として西洋社会のインテリ層に普及しつつあります。

 2012年の文章なので、日本にデザイン思考が紹介され始めた頃です。この時点で、ここまで深い洞察を持たれていた石井氏には、ただただ敬服してしまいます。そして、デザイン思考に隠されている「欺瞞」にも焦点を当てます。

 しかし、ここには「デザイン思考」の欺瞞も隠れています。”形式化の外側にあるものを手法として形式化するという矛盾”をはらむ「デザイン思考」の「本質」は、神秘的に語られるしかありません。これについついては「デザイン思考」自体が悪い訳ではなく、そもそもデザインという行為には神秘的な瞬間が生じるのだからしかたありません。しかし「デザイン思考」という「誰にでも実践できる洗練された手法」があるかのうようなプレゼンテーションは嘘っぱちです。「デザイン思考」がまるで「非属人的・形式的・人間疎外的な手法」であるように見せかけているのです。

 引用が長くなりましたが、石橋氏はデザイン思考の「本質」は形式化の外側にある神秘的なものだとしています。ここでいう「神秘的」というのは反射的、身体的、無意識的、属人的なもので、「修行」によってしか体得できないので、これを「誰がやっても素晴らしい結果が出る手法」のようにいうのは「欺瞞」であるというわけです。従来のデザイン思考で説明されている範囲を対象にするなら、私も石橋氏の指摘をそのまま100%支持します。

「神秘」ではなく「アナロジー」

 さて、神秘的と言われている飛躍は「発想」の際に起こるのでした。それはたびたび「ブレスト」というコミュニケーションを通じて生じます。「ブレスト」は多様な参加者が既存概念や先入観にとらわれずに自由に発言することで、お互いの発想を利用して新たなアイデアを生み出すことを期待しています。そこでは因果関係は無視され論理的な思考も抑えられ、様々なイメージが氾濫することになります。様々なイメージは思いもしないイメージ同士の結合を生じます。

「今は軽量化のアイデアを出しているのに、こいつはなんで宅急便の話しをしているんだ」
「試作品が宅急便で届くのか、、、宅急便のドライバーは台車で荷物を運んでいていつも忙しそうだ」
「そもそも軽量化は運びやすくするためだよな、、、宅急便の台車には車輪があるなぁ」
「軽量化が難しければ車輪をつけてしまえばいいのでは!」

「耐久性が問題なのに、またサッカーの話しをしている」
「あれあれ、こっちの人は家庭菜園の話しを始めた」
「次はなんだ、地球温暖化の話しか、、、、」
「でも、どの話しも面白い!このメンバーならどんな聴衆でも満足する講演会ができそうだ」
「そうか!色々な材料を組合せればあらゆる環境で耐久性が保てるかもしれない」。

 神秘的と思われている発想の「飛躍」は多くの場合このように起こっているのではないでしょうか。行われているのはアナロジー思考です。「類似しているものから推しはかって考えること」が発想の飛躍をもたらしています。

 軽量化しなくてはならない製品は「運ぶ」ということで宅急便の荷物と類似性がありました。宅急便は台車で運ばれ、その台車には車輪が付いています。そこから「車輪」を付けるというアイデアが生まれます。製品そのものや、軽量化の技術をどんなに時間をかけて考えても「車輪」の発想には辿り着かないでしょう。

 温度や湿度、粉塵や衝撃など耐久性を問われる環境は様々です。これは、ブレストメンバーが魅了するであろう「様々な聴衆」がいる環境と類似しています。ブレストメンバーの個性の多様性から、単一の材料ではなく複数の材料という発想が導かれます。

 多分、「本質」は「神秘」ではなく「アナロジー」です。 

それでも「体得」する部分はある

 それでは、アナロジー思考は伝統的西洋思考のように形式化できるのでしょうか?私は形式化は可能ですが、それには限界もあると考えています。有効な手順に沿って進めることで、アナロジー思考への敷居を下げ、成果のレベルを上げることはできます。しかし、誰もがいつでも素晴らしい成果を出せるようなものではありません。

 これは、あらゆるスポーツや楽器演奏、その他の熟練が求められる職業にも共通しています。テニスには、ラケットの持ち方、腕の振り方、両足への体重のかけ方などを教えてくれる教則本があります。スクールに行けばトレーナーがメソッドに沿ったコーチングをしてくれます。誰でもある程度は上手くなりますが、そこから先は人それぞれ。素質と練習量が上達曲線の主な係数です。

 アナロジー思考もプラクティス(練習)が重要なことは同じで、それがメソッドに沿ったものであれば更に効果的だと思います。どうしても、最後は属人的に体得していかなければならない部分は残りますが、それは、テニスでもゴルフでもバイオリン演奏でも、ほとんどの職業においても、同じことなのです。

 ナイジェル・クロスは「創造的飛躍」がデザインプロセスの中心だといいましたが、これはアナロジー思考に近いものだと思います。彼はデザインを科学から独立可能な専門技能と主張していましたが、一方で「デザインは神秘的で言葉では表せない技能として扱う必要はない」とも言っています。「直観」か?「科学」か?の対立ではなく、デザイナーが持つ独自の認識、感知、思考の方法が「創造的飛躍」をもたらすというものです。デザイナーが持っている「独自の認識、感知、思考の方法」はテニスと同じように練習で培われるのは間違いありません。

神秘主義への処方箋

 「デザイン思考」の形式的手法をなぞって実践していれば、あたかも「機械的」に成果が出ると思っている。そういう人はもちろん失敗します。失敗したときに「まだ自分が知らない何か」=神秘があるように思えてくる。そして「秘術をマスターした人」=権威に頼りたくなってくる。

 石橋氏はこのように「体得」が必要なのに形式知だけで実践できるかのような言説は結果的に権威主義に陥ると警鐘を鳴らしています。こうならないための処方箋はどのようなものでしょう?

 まずは何事にもたいていは「体得」する領域があると認めることでしょう。そして、その領域を出来るだけクリアに見渡すことです。デザインにおける「飛躍」は個性的・独創的・属人的な発想が契機になるのですが、このままでは「何を」体得すればいいのか分からないままです。その結果の「秘術」→「神秘主義」→「権威主義」ということです。発想の際に行われているアナロジー思考を理解することで「何を」体得する必要があるか分かります。「ボールを遠くに飛ばす」を体得するのは難しいですが、「スイングのフォーム」と「体重移動のタイミング」を体得するというのは、何をすれば良いか明らかです。これは単に具体化のレベルの話しですが、とても重要だと思います。
 もう一つは、「隠されていて、分かる人だけが分かる」ということに価値を置かないことです。「体得」が必要なのに形式知だけで実践できるかのような言説は結果的に「隠されている」こと自体を価値にしてしまいます。これが神秘主義のスイッチです。バイオリンもテニスも「隠されている」手法に価値などなく、活動の成果である美しい演奏や素晴らしいプレイなどが価値です。それは、デザインもアナロジー思考も同じなのです。

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