スペキュラティブ・デザインとSFの問題提起

2020年12月18日

 2015年に出版されたアンソニー・ダン&フィオナ・レイビーの『スペキュラティブ・デザイン』は新しいデザインの立場を鮮明にしていて、とても刺激的です。しかし、従来からのデザインのイメージを前提にすると分かり難い面もあります。「問題解決から問題提起へ。」というサブタイトルが示すことは何なのか?同じように、未来を舞台に問題提起を行ってきたSF(Science Fiction)を足掛かりに スペキュラティブ・デザインにおける問題提起について考えます。

SFとの親和性

 私達は「問題発見」と「問題解決」はセットで考えていて、「発見した問題は解決しなければならない」と思ってしまいます。スペキュラティブ・デザインはそんな先入観を簡単に飛び越えます。未来を予測して解決策を探るのではなく、未来の可能性を「こうもありえるのではないか」と示すことで、問題を提起し、「未来について考えさせる(思索=speculate)こと」を目的にしているからです。スペキュラティブ・デザインを提唱したアンソニー・ダンが言う「Not Now,Not Here」は可能性を広げるために構想する別世界のことです。

  アンソニー・ダン講演動画「Not Here, Not Now」 2014年12月13日、京都工芸繊維大学

 未来について考えるのは、元々SF(Science Fiction)がやってきたことです。SFも「Not Now,Not Here」を舞台に様々な物語を紡いできました。SF作家のブルース・スターリングが提唱する「デザインフィクション」は「物語世界にリアリティを与えるためのプロトタイプ(試作品)」のことを言っています。これは、まず物語がありそれにリアリティを与えるためにデザインされる創作物、というように理解できます。
 「スペキュラティブ・デザイン」と「デザインフィクション」は重なるところがあると言われていますが、「スペキュラティブ・デザイン」はデザインされたモノを入り口に、それを見る人々を別世界の物語に誘います。しかし、その物語は完結した長編小説のようなものではありません。俳句のように観点や価値観を伝える程度です。なので、そのデザインを見る者の想像力が試される、まさに、思索的なデザインです。初めに「Not Now,Not Here」という設定があり、そこにおける創作物を通して物語を駆動していくというプロセスです。

 いずれにしても、「スペキュラティブ・デザイン」はSFと親和性が高いといえそうです。視点は、いまあるこの世界の人間に向けられているのではなく、異なる世界・異なる時間に向けられています。人間中心のデザインではなく物語を構築するためのデザインは私達に何をフィードバックしてくれるのでしょうか?

Not Now,Not Hereという設定

 よく、物語は3つの要素からできていると言われます。
  ・設定
  ・ストーリー
  ・キャラクター
 この3つの要素のどれから先に考えるか、あるいは、どれを重要視するかというところに作家の個性が現れ、物語の質に決定的な影響を与えるというものです。シナリオに大金をかけるハリウッド映画などは「ストーリー」重視、日本のアニメなどは「キャラクター」重視でしょう。SFは間違いなく「設定」を重視している分野だと思います。「科学」と「空想」という手段を使って作り上げているのは「設定」にほかならないのですから。

 1953年に書かれた、アイザック・アシモフのSF小説『はだかの太陽』に出てくるのは、人口が爆発的に増え巨大なドームで外界から隔離された都市にひきこもる地球の姿です。限られたスペースを何とか共有しながら暮らしていますが、身体的な接触が過剰になっています。そんな大都市に暮らすニューヨーク市警の刑事が、地球とは反対に惑星全体で人間(大昔に移植した地球人の子孫)が2万人しかいないソラリアという星で起きた殺人事件の捜査を命じられます。この惑星の住人はほとんど人に会うことなく一生を過ごします。必要なことは3次元ホログラフィーによる通信で済ませ、経済は人間1人当たり1万台というロボットによって担われています。ドーム都市に住み「外の世界」が恐ろしいと感じる地球人刑事が、人に会うことを忌み嫌うソラリア人を相手に難事件の解決に挑むというものです。

<地球>
人口過多
プライベート空間なし(共有)
外の世界が怖い

<惑星ソラリア>
人口過少
広大な私有地
人に会うのが怖い

 こんな、魅力的な「設定」の中に殺人事件が放り込まれれば、アシモフの秀逸なストーリーには及ばなくても、他にも色々なストーリーが立ち上がってきそうです。そして、この状況は現在のコロナ禍における社会的なコンセンサスの問題にも直結したテーマです。

 このようにSFは昔から「設定」を駆使して、想像力を刺激し問題を提起してきました。「スペキュラティブ・デザイン」においても現実の世界から「設定」を変えることで、デザインのトリガーを引き、見る者の想像力を刺激するという構造は同じです。「設定」にリアリティを持たせるために使われるのが「科学」という点も一致しています。このように、まず「設定」を構想することが、想像力の入り口になっています。

問題提起型のデザインアプローチが目指すもの

 SFはデザインではないので、元々「問題解決」することは目的にしていません。問題を提起し想像力を刺激する。そして、物語で人々を楽しませたり、考えさせたりすることが目的です。SF作家に自分が提起した問題を解決する役目を負わせたら、作家たちの想像力はこじんまりたものになりそうです。
 「実現可能性」や「収益性」といったビジネスの概念が想像力を奪ってきたのは明らかです。SF作家はこのような制約を受けないので想像力の羽を広げることができたのです。一方、デザインはビジネスと連携して発展してきました。ビジネスとして成立するという制約のうえで創造性を発揮することがデザインの役割だと考えられてきたのです。

 しかし、考えてみれば当たり前なのですが、ビジネスは世界の一部でしかありません。優秀なビジネスマンも家庭では優しい父親でしょうし、町内会の役員をやっていたり、週末はボランティアにも出かけるかもしれません。ビジネスの周りには家庭や地域社会や自然環境が広がっています。そんな、世界のほんの一部のために想像力を諦めるのか?という問いが、「スペキュラティブ・デザイン」の発端になっているのではないでしょうか。「想像力を諦めない」としたデザインは問題提起型のアプローチになるのです。SFが文章や映像をメディアにしているのに対して、デザインをメディアにした問題提起です。デザインが直接、想像力を刺激し思索を促す役割を担うことになったのです。

 しかし「スペキュラティブ・デザイン」にも問題提起の「その先」を問う声があります。やはり、問題提起だけではなく、これを受けて何等かのかたちでの実装(問題解決)が必要ではないかというものです。でも、私はあまり「その先」を強調しないほうが良いと思います。SFの黎明期に「荒唐無稽だ」「子供じみた夢物語だ」という批判がありましたが、もちろんSFは実用的であることも現実的であることも目指していません。「スペキュラティブ・デザイン」も「その先」を強調しすぎると、同じような批判を受け「結局、役に立たない」という評価になってしまうかもしれません。SFにインスパイアされた科学者や技術者が革新的な発明を行った例がたくさんあるように、「その先」は受け手の想像力に任せるのがいいのではないでしょうか。

 「問題発見」の1本足で立つことが、新しいメディアとしてのデザインを模索する「スペキュラティブ・デザイン」の本来の姿です。問題を発見し想像力を刺激すること。それこそが想像力が枯渇している現代における有効性であり、私達へのフィードバックなのです。

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