「速い」とは何なのか?

2022年7月27日

大阪万博(1970)で展示された国鉄のリニアモーターカーの模型を描いたシャールジャの切手
UAE Post (Sharjah), Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

リニアモーターカー不要論

 私が小学生の頃、担任の先生がレールの上を浮かんで走る未来の鉄道について熱心に話してくれたことを覚えています。丁度、その頃、1972年に鉄道技術研究所では初めてリニアモーターカーの浮上試験に成功していました。それから50年経った2022年の現在は、5年後に迫った営業運行を目指して半世紀越しのプロジェクトがいよいよ大詰めを迎えています。
 しかし、最近になってリニアモーターカーは不要だとか「出来ても乗らない」という声を聞くことがあります。完成すれば東京ー名古屋間が40分、東京ー新大阪間が67分で運行されるので、確かに「速い」列車です。しかし、時代は確実に変化していて、50年前の先生と生徒が共に夢見た未来では、皮肉なことに「不要論」の波が押し寄せているようです。
 50年と言えば、変化するのも当然で、私が小学生だった1972年から遡ること50年前の1922年というのは、日本で初めて電気洗濯機が発売された年です。今の価格にして150万円以上と庶民には手が届かない高級品でした。イタリアではムッソリーニが首相になり、ソ連が成立したのもこの年です。日本ではラジオ放送も始まっておらず、太平洋戦争よりも、日中戦争よりもずっと前の時代です。
 それから50年でリニアモーターカーの浮上試験が成功したのだから、世の中は全く変わってしまったようにも思えます。なので、1972年から50年後の2022年に「不要論」が出てくるのも、致し方ない時代の変化なのかもしれません。

1972年を起点にした50年前と50年後

「速い」ことは良い事?

 さて、この時代の変化とは実際、どのようなものでしょう?特に「速い」ということに関する私達の認識はどのように変わってきたのでしょう?
 私達は「速い」ということは何となく「良い」ことだと思っています。リニアモーターカーは新幹線よりも速いので多くの人が求めたのでしょう。オリンピック、特に陸上競技は「速さ」を競うものがほとんどです。0.01秒の違いが選手の人生や国の名誉まで左右する重大事になっています。「仕事が速い」というのは間違いなく誉め言葉です。反対に「仕事が遅い」というのは否定的に使われる悪口です。

 日本で初めて洗濯機が発売された1922年、イタリアでは未来派が席巻していました。未来派宣言では「機銃掃射をも圧倒するかのように咆哮する自動車は、《サモトラケのニケ》よりも美しい」と速度の美が礼賛され、絵画や彫刻、音楽など様々な方法でスピードが表現されました。
 彼らは、それまで美しいと思われていなかった機械や都市などの人工物に美しさを発見します。そして人工物が作り出す「速さ」のなかにも美を見出したのです。それは理屈に囚われないものでした。
 しかし、未来派はこのシンプルな感情を政治と関連させることで混乱し失速してしまいます。

 ところで「速い」と同じ読みで「早い」という言葉があります。「速い」は一定の時間の中で多くの動作が行われることですが「早い」はある基準の時間よりも前の時点でものごとが行われることです。この「速い」と「早い」は関係していて、例えば、リニアモーターカーは「速い」ので「早く名古屋に到着する」ことができます。「仕事が速い」と「早く仕事を終わらせる」ことができます。上司への報告や顧客への納品も「早く」済ませることができるのです。
 「速い」というプロセスは「早い」という結果を生むことになっており、これは効率に関係していそうです。一年で100万円稼ぐより一日で100万円稼ぐほうが「良い」のは経済原理がそうなっているからで、「早く」稼ぐためには仕事も「速い」ことが求められます。
 未来派は「速い」だけの美を標榜しました。「早い」ことに興味は無かったと思います。しかし、戦後、世界中を資本主義が覆うなかで「速い」は「早い」と結び付き、いっそう人々を惹きつけることになったのです。

未来派による「人工物の美」(左)と比較されたヘレニズム時代の彫刻(右)

冷たい合理性

 当然、リニアモーターカーは「速い」ことによって「早い」を求めたものです。「速い」だけを求めていれば、トンネル区間が約9割というということにはならなかったでしょうし、運転席に窓がないような車両デザインにもならなかったでしょう。
 窓から流れる外の景色を楽しむことも、高速で通り過ぎる雄姿を見ることも重要とはされていません。一般の人は運転席の窓からの景色を見ることはできませんが、最もスピードを感じるはずのその景色を想像することさえ封印して「実用上必要ないので付いていません」ということになっています。
 人間をA地点からB地点に早く移動させるためにはどうすれば良いか?いや、物体をA地点からB地点に移動させるためにはどうすれば良いか?そんな冷たい合理性を感じます。
 50年という時間をかけて私達はようやく、こういう種類の合理性を求めていないことに気付き始めたのかもしれません。「コスパ」という言葉が良く使われていますが、これは短時間のうちにどれだけ成果が得られるかという「速さ」を基準にした考え方です。このような経済原理は今まで多くの人が盲目的に「良い」と思ってきました。
 経済原理に組み込まれた「速い」と「早い」への称賛は未来派などよりよほど徹底しており、単なる美意識に留まらず、交通やコンピュータ、生産工程などの産業はもとより、生活の隅々にまで「速さ」が求められるようになります。これがリニアモーターカーを実現へと駆り立てた原動力です。

「良い事」に向き合う態度

 しかし、「リニアモーターカー不要論」は、そんな強固な「速さ」への信仰も力を失いつつあるということなのかもしれません。現在は東京から大阪まで2時間30分かかり、出張となれば一日仕事、場合によっては泊りがけです。昼食には駅弁を買って、仕事終わりには先方と飲みに出かけるかもしれません。日帰りでも新幹線のなかで冷たいビールを流し込めます。
 これが1時間ちょっとに短縮されたら、日帰りは当然で、場合によっては午前中で往復して午後には東京のオフィスに出勤ということもできます。そんなスピードを誰が求めているのでしょう?
 出張する人も、出張先の人も望んでいません。望んでいるのは経済原理そのものです。それに参加する個々人はそんな「速さ」にも「早い」にもうんざりしているのではないでしょうか。

 このような経済原理は何故「良い事」になっているのでしょうか?
 もちろん、経済的に豊かになれば皆が幸福になるということなのでしょうが、大阪まで2時間で往復できる「速さ」が本当に経済的な豊かさにつながるのか疑問です。ましてや、経済的豊かさがそのまま幸福に繋がるわけではないことにも気付いています。それが「リニアモーターカー不要論」の正体です。

 改めて考えると経済原理を盲目的に良い事とする態度は、理屈抜きで速度の美を礼賛した未来派と通底するものがあります。経済原理もそれが単に「良い事」というのは限界を迎えていて、時と場合によりけり、状況に合わせて判断が必要になってきているのではないでしょうか。

 私達は自分が生きてきた時間で物事を考えます。ほんの数十年という時間のなかで培った常識を何か不変の真理のように思いこみ「良い事」や「悪い事」を判断してしまいがちです。しかし「速い」ことに対する認識が変遷しているように、様々な常識も実は流れ移ろいゆく自由なものなのかもしれません。

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