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 2015年に出版されたアンソニー・ダン&フィオナ・レイビーの『スペキュラティブ・デザイン』は新しいデザインの立場を鮮明にしていて、とても刺激的です。しかし、従来からのデザインのイメージを前提にすると分かり難い面もあります。「問題解決から問題提起へ。」というサブタイトルが示すことは何なのか?同じように、未来を舞台に問題提起を行ってきたSF(Science Fiction)を足掛かりに スペキュラティブ・デザインにおける問題提起について考えます。

SFとの親和性

 私達は「問題発見」と「問題解決」はセットで考えていて、「発見した問題は解決しなければならない」と思ってしまいます。スペキュラティブ・デザインはそんな先入観を簡単に飛び越えます。未来を予測して解決策を探るのではなく、未来の可能性を「こうもありえるのではないか」と示すことで、問題を提起し、「未来について考えさせる(思索=speculate)こと」を目的にしているからです。スペキュラティブ・デザインを提唱したアンソニー・ダンが言う「Not Now,Not Here」は可能性を広げるために構想する別世界のことです。

  アンソニー・ダン講演動画「Not Here, Not Now」 2014年12月13日、京都工芸繊維大学

 未来について考えるのは、元々SF(Science Fiction)がやってきたことです。SFも「Not Now,Not Here」を舞台に様々な物語を紡いできました。SF作家のブルース・スターリングが提唱する「デザインフィクション」は「物語世界にリアリティを与えるためのプロトタイプ(試作品)」のことを言っています。これは、まず物語がありそれにリアリティを与えるためにデザインされる創作物、というように理解できます。
 「スペキュラティブ・デザイン」と「デザインフィクション」は重なるところがあると言われていますが、「スペキュラティブ・デザイン」はデザインされたモノを入り口に、それを見る人々を別世界の物語に誘います。しかし、その物語は完結した長編小説のようなものではありません。俳句のように観点や価値観を伝える程度です。なので、そのデザインを見る者の想像力が試される、まさに、思索的なデザインです。初めに「Not Now,Not Here」という設定があり、そこにおける創作物を通して物語を駆動していくというプロセスです。

 いずれにしても、「スペキュラティブ・デザイン」はSFと親和性が高いといえそうです。視点は、いまあるこの世界の人間に向けられているのではなく、異なる世界・異なる時間に向けられています。人間中心のデザインではなく物語を構築するためのデザインは私達に何をフィードバックしてくれるのでしょうか?

Not Now,Not Hereという設定

 よく、物語は3つの要素からできていると言われます。
  ・設定
  ・ストーリー
  ・キャラクター
 この3つの要素のどれから先に考えるか、あるいは、どれを重要視するかというところに作家の個性が現れ、物語の質に決定的な影響を与えるというものです。シナリオに大金をかけるハリウッド映画などは「ストーリー」重視、日本のアニメなどは「キャラクター」重視でしょう。SFは間違いなく「設定」を重視している分野だと思います。「科学」と「空想」という手段を使って作り上げているのは「設定」にほかならないのですから。

 1953年に書かれた、アイザック・アシモフのSF小説『はだかの太陽』に出てくるのは、人口が爆発的に増え巨大なドームで外界から隔離された都市にひきこもる地球の姿です。限られたスペースを何とか共有しながら暮らしていますが、身体的な接触が過剰になっています。そんな大都市に暮らすニューヨーク市警の刑事が、地球とは反対に惑星全体で人間(大昔に移植した地球人の子孫)が2万人しかいないソラリアという星で起きた殺人事件の捜査を命じられます。この惑星の住人はほとんど人に会うことなく一生を過ごします。必要なことは3次元ホログラフィーによる通信で済ませ、経済は人間1人当たり1万台というロボットによって担われています。ドーム都市に住み「外の世界」が恐ろしいと感じる地球人刑事が、人に会うことを忌み嫌うソラリア人を相手に難事件の解決に挑むというものです。

<地球>
人口過多
プライベート空間なし(共有)
外の世界が怖い

<惑星ソラリア>
人口過少
広大な私有地
人に会うのが怖い

 こんな、魅力的な「設定」の中に殺人事件が放り込まれれば、アシモフの秀逸なストーリーには及ばなくても、他にも色々なストーリーが立ち上がってきそうです。そして、この状況は現在のコロナ禍における社会的なコンセンサスの問題にも直結したテーマです。

 このようにSFは昔から「設定」を駆使して、想像力を刺激し問題を提起してきました。「スペキュラティブ・デザイン」においても現実の世界から「設定」を変えることで、デザインのトリガーを引き、見る者の想像力を刺激するという構造は同じです。「設定」にリアリティを持たせるために使われるのが「科学」という点も一致しています。このように、まず「設定」を構想することが、想像力の入り口になっています。

問題提起型のデザインアプローチが目指すもの

 SFはデザインではないので、元々「問題解決」することは目的にしていません。問題を提起し想像力を刺激する。そして、物語で人々を楽しませたり、考えさせたりすることが目的です。SF作家に自分が提起した問題を解決する役目を負わせたら、作家たちの想像力はこじんまりたものになりそうです。
 「実現可能性」や「収益性」といったビジネスの概念が想像力を奪ってきたのは明らかです。SF作家はこのような制約を受けないので想像力の羽を広げることができたのです。一方、デザインはビジネスと連携して発展してきました。ビジネスとして成立するという制約のうえで創造性を発揮することがデザインの役割だと考えられてきたのです。

 しかし、考えてみれば当たり前なのですが、ビジネスは世界の一部でしかありません。優秀なビジネスマンも家庭では優しい父親でしょうし、町内会の役員をやっていたり、週末はボランティアにも出かけるかもしれません。ビジネスの周りには家庭や地域社会や自然環境が広がっています。そんな、世界のほんの一部のために想像力を諦めるのか?という問いが、「スペキュラティブ・デザイン」の発端になっているのではないでしょうか。「想像力を諦めない」としたデザインは問題提起型のアプローチになるのです。SFが文章や映像をメディアにしているのに対して、デザインをメディアにした問題提起です。デザインが直接、想像力を刺激し思索を促す役割を担うことになったのです。

 しかし「スペキュラティブ・デザイン」にも問題提起の「その先」を問う声があります。やはり、問題提起だけではなく、これを受けて何等かのかたちでの実装(問題解決)が必要ではないかというものです。でも、私はあまり「その先」を強調しないほうが良いと思います。SFの黎明期に「荒唐無稽だ」「子供じみた夢物語だ」という批判がありましたが、もちろんSFは実用的であることも現実的であることも目指していません。「スペキュラティブ・デザイン」も「その先」を強調しすぎると、同じような批判を受け「結局、役に立たない」という評価になってしまうかもしれません。SFにインスパイアされた科学者や技術者が革新的な発明を行った例がたくさんあるように、「その先」は受け手の想像力に任せるのがいいのではないでしょうか。

 「問題発見」の1本足で立つことが、新しいメディアとしてのデザインを模索する「スペキュラティブ・デザイン」の本来の姿です。問題を発見し想像力を刺激すること。それこそが想像力が枯渇している現代における有効性であり、私達へのフィードバックなのです。

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 カメラのデザインを決めているのは何なのでしょう?デザインの移り変わりを見ていくと「テクノロジー」と「意味」がカメラのかたちを決める大きな要因になっていることが分かります。私達の周りで技術は進む一方ですが「テクノロジー」だけでモノのかたちが決まっているわけではありません。そのモノが持つ「意味」が重要な役割を担っています。ここでは、35mmカメラの源流であるバルナックライカから大きく変わることが無かったカメラのかたちが1990年代に大きく変化し、その後、再びバルナックライカ型に回帰した経緯を辿ることで、デザインにおける「テクノロジー」と「意味」の関係を考えます。

デザインを確立したバルナックライカ

 35mmフィルムを使うカメラは1913年にオスカー・バルナックが初めて作りました。この時代、35mmフィルムは映画用のシネフィルムとして使われていましたが、これをスチルカメラに転用したのです。それまで、通常のカメラは木製の大型のもので、重いガラス製の写真乾板を使っていました。バルナックが勤めていたエルンスト・ライツ社はこの35mmフィルムを使うカメラを1920年に市販し「ライツのカメラ」(Leitz Camera )ということで「ライカ」と名付けました。

バルナックライカ(LeicaⅠ,1927)© Kameraprojekt Graz 2015 / Wikimedia Commons, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

 このカメラがその後のカメラのデザインを決めたと言われています。ただ、それは美的に優れていたというより、機能的な制約によるものでした。35mmフィルムが入ったパトローネを一方の軸に装填し、もう一方の軸で巻き上げます。両方の軸の間でフィルムの感光面が平らに広がるスペースがあり、これと直角の方向からレンズで集めた光を当てます。光が丁度フィルムの感光面で焦点を結ぶ距離になるようにレンズの位置が決められます。もちろん光は常時当たっているのではなく、一瞬だけ取り込まれるようにシャッターがレンズとフィルムを隔てなければなりません。そして、これら全ては光が入らないように慎重に塞がれたケースに入ります。ところが、この暗箱はフィルムを入れるときには簡単に開け閉めができたり、レンズを交換したり、シャッター速度を変える機構も合わせて持たなくてはなりません。さらに、これらを全て手のひらに乗るようなサイズで実現するということになります。
 これだけの機能を実現して見せたのだから、ライカがスタンダードのデザインになるのも当然です。世界中のカメラメーカーはライカをコピーすることから始めました。日本でもたくさんのライカコピー機が作られましたが、やはり日本の技術力は素晴らしいもので、なかには「ライカを超えた」と言われるほど高い品質を持つものもありました。

「ライカを超えた」と言われたキヤノンレンジファインダー Canon ⅣSb,1952 (wikipediaより GFDL, リンク

Leica M3,1954 (wikipediaより Rama – 投稿者自身による作品, CC BY-SA 2.0 fr, リンクによる)

 ところが、1954年にライカから「M3」が発売されると、その性能の高さのあまり日本のカメラメーカーがそろって開発方針を一眼レフカメラに切り替えることになります。それでも、カメラとしての原型はそれほど大きく変わっていません。ファインダーの機構が変わりましたが、ライカが設定した機能はほとんどそのまま引き継がれることになります。

 その後もカメラメーカーは沢山の名機を生み出しますが、1913年から始まった伝統は変わることはありませんでした。ライカを頂点にしたヒエラルキーは好き嫌いはあるにせよ、厳然として存在し継続していたのです。

一眼レフになっても基本構造は同じ
Nikon F,1959

テクノロジーによるデザインの変化

 ところが、1994年に、思ってもいない方向から変化が起こります。計算機の会社であるカシオがデジタルカメラQV-10を発売したのです。デジタルカメラと言えるものはこれ以前にもありましたが、QV-10は撮影画像をその場で確認できる背面の液晶パネルやパソコンと直接接続して画像を移動させる仕組みなど、現在に続くデジタルカメラの基本的な機能を実現したものでした。右側に極端に寄った位置にあるレンズ。このレンズ部分は垂直方向に回転し撮影画像を目視しながらシャッターを切れるものでした。35mmフィルムという制約が無くなったことで、カメラはデザインを思い出したように自由になります。

1994~2005 デジタルカメラ黎明期の多彩なデザイン

レンズ回転型 Casio QV-10,1994
(Wikipadiaより GFDL, リンク

香水瓶型 CONTAX i4R,2005
縦型 FUJIFILM FinePix 1700Z,1999
(Wikipadiaより Ypy31 – 自ら撮影, パブリック・ドメイン, リンクによる)
Nikon COOLPIX 950,1999
(Wikipadiaより CC 表示-継承 3.0, リンク)
SONY Cybershot DSC-F1,1996
(Wikipadiaより Morio – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる)
Canon PowerShot 600,1996
(Wikipadiaより Morio – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる)

 それはまるで、カンブリア爆発のようです。テクノロジーの発展はデザインに決定的に影響するということでしょうか?つまり、テクノロジーがモノの形を規定しているということなんでしょうか?バルナックの考えたテクノロジーがその後80年に渡ってカメラのデザインを規定してきました。そして、デジタルという新しいテクノロジーが登場した途端、カンブリア爆発を起こしたことからもこの考えは有力に思えます。

   「テクノロジーがデザインを規定する」

バルナックカメラ型への回帰

しかし、待ってください。最近のカメラデザインを見てみましょう。

2004~2018 昔のフィルムカメラのような最近のデジタルカメラ

FUJIFILM X100,2011
(Wikipadiaより Kateer – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる)
OLYMPUS PEN E-P1,2009
(Wikipadiaより Julien Min GONG from Beijing, China – Olympus E-P1, CC 表示 2.0, リンクによる)
SONY Cyber-shot DSC-RX100,2012
(Wikipadiaより Oilstreet – 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, リンクによる)

Nikon Df,2013
(Wikipadiaより ranekoNikon 1 V2 + Nikon Df, CC 表示 2.0, リンクによる)
Panasonic LUMIX DMC-LC1,2004
(Wikipadiaより 663highland, CC 表示 2.5, リンクによる)

SIGMA DP-1,2008
(Wikipadiaより Ozizo – Ozizo’s file, パブリック・ドメイン, リンクによる)

 どれもみな、バルナックライカの延長のようなデザインに戻っています!横長の小箱という基本構造があり、その側面中央にレンズが付いています。操作系のボタンやダイヤルが小箱の上部に配置されているのも1913年から変わっていません。レンズ回転型も香水瓶型も縦型も進化の激流のなかでは生き残れなかったということでしょうか。ここから分かるのは、テクノロジーはモノの形に決定的に影響しますが、それが全てでなないということです。では、何が影響しているのでしょう?それは、製品が持っている「意味」です。私達が製品を購入するとき、機能だけで選択しているのではありません。その製品が持っている「意味」が大きく影響しています。

 オリンパス Penはライカのサブカメラに使える性能を目指して1959年に米谷美久さんが開発したハーフサイズカメラが源流です。ワイドレンズが付いたPen-Wは戦場カメラマンの石川文洋さんや写真家の森山大道さんが愛用したことで有名です。低価格だけど性能に妥協しない本格志向。そんなコンセプトを受け継いだのが2009年に発売されたデジタルカメラのシリーズです。

OLYMPUS PEN3,1965
(Wikipadiaより John Nuttall from Hampshire, United Kingdom – Pen D3Uploaded by oxyman, CC 表示 2.0, リンクによる)

 ライカM3ショックで一眼レフに舵を切ったニコンは1959年に「F」を発売します。プロの使用に耐える堅牢性と完成度はその後の一眼レフ全盛の時代を切り開くものでした。1980年に発売された「F3」はジョルジェット・ジウジアーロがデザインしたもので、プロ仕様はそのままに自動化技術をふんだんに盛り込み、世界中で愛されるカメラになりました。現在のニコンデジタル一眼のデザインはこの時代からの系譜と言えます。

世界中で愛された一眼レフ
Nikon F3,1980

 このように製品が持っている歴史も「意味」の一つです。カメラの場合は、やはりライカとの関係でポジションを取ることが無意識的に行われてきたように思います。「ライカを超える」「ライカのサブ」「ライカが目指していない一眼で勝負」ライカとの比較やライカとの相対的なポジショニングで自身のアイデンティティを規定していく。そんな伝統がカメラには無意識的にせよあるのではないでしょうか?このようなライカとの関係性というのも「意味」の一つです。だから、デジタル技術でカンブリア爆発を起こした後も、ライカ型のスタイリングに回帰しているのです。

 「本家ライカを超えた性能を持つCanonレンジファインダー」
 「ライカのサブカメラとして有名な写真家も愛用したオリンパスPen」
 「ライカが実現できなかったプロ仕様の一眼レフで世界の頂点を極めたニコンF3」

 このような前世代のフィルムカメラに込められた「意味」を受け継いでいるのが最近のデジタルカメラです。そんな意味を持つ一台を自分のモノにしたい。そういう思いが商品を選択するときに働きます。私達はモノを購入すると同時に物語(歴史)という意味、つまり情報を一緒に買っているのです。それはライカを知らない世代にも引き継がれることになります。歴史は新たに起点を変えて語り継がれるからです。

 「伝統のFシリーズの系譜を受け継ぐNikonのデジタル一眼」

 木の幹から枝別れし、さらに枝が伸びるように、幹のことは知らなくても、枝の部分から新たな物語が始まっているからです。でも、枝はやっぱり幹に繋がっているので、デザインは源流の影響を大きく受けることになります。

「テクノロジー」の陳腐化と新しい「意味」の創出

 そうすると、なかなか革新的なデザインは生まれないように思いますが、私はそれはそれで好ましいことのように思います。新たなテクノロジーが登場するたびに物語がリセットされてしまうより、小さな物語に自分も少しだけ参加し「意味」を持つ製品を所有する喜びを感じていたいと思うからです。そして、カメラのカンブリア爆発が早々に収束したように、世の中のテクノロジーの受け取り方も抑制的であるようです。最新テクノロジーは好きだけど、それだけでモノを選択しているのではないようです。やはり、多くの人が意味の重要性に軍配を上げているということではないでしょうか。最近のカメラデザインはそれを敏感に反映したものです。

 このようなデザインにおけるテクノロジーと意味との関係は、カメラだけでなくあらゆる製品について言えることです。
 腕時計の機能は正確な時刻を知らせるというものです。ところが1970年代に登場したクォーツ技術で、この課題は解決されてしまいます。クォーツになり低価格化が進み、デジタル式や電卓が付いたもの、コンピューターが付いたものなどが登場します。しかし、今では、デザインもベーシックなアナログ式に回帰しています。外見だけでは50年前の時計と区別をつけるのが難しいのではないでしょうか。それどころか、腕時計ではテクノロジーも原点に回帰していて、機械式の高級時計が復権しています。高級時計に大金を払うのは時間を知りたいからではなく、その時計やその時計を持つ意味(ステータス)に価値を見出しているからです。

 時刻を知る機能がスマートフォンに代替されたように、写真を撮るのもスマートフォンで十分という人も多くなっています。デジタルカメラの売上も年々減少しており、その傾向は明らかです。今後、カメラはどのようになっていくのでしょう?腕時計のようにテクノロジーも回帰してフィルムカメラが復権するのでしょうか。最新の電子技術と職人達の磨き抜かれた技術で作られたフィルムカメラ。往年のF3やライカのM7を超えるような一台が登場したら、カメラはもう一度新しい意味を持つかもしれません。

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日本の伝統色「和色」

 色の名前を最初に覚えたのはいつだったでしょう?子供の頃に使った絵具からという人も多いと思います。「ぺんてる12色絵具セット」に入っているのは、しろ、きいろ、レモンいろ、きみどり、ビリジアン、あお、あいいろ、あか、しゅいろ、ちゃいろ、おうどいろ、くろになります。
 仕事をするようになって「和色」という日本の伝統色があることを知りました。こちらのサイトには全部で930の伝統色が登録されています。「赤」系統だけでも100色は超えるのではないでしょうか。これらの色は昔から染織物や絵画、焼き物などで使われていたそうで、改めて日本人の繊細さに感心させられます。名前もとても趣のあるものです。「珊瑚色(さんごいろ)」「薄柿(うすがき)」「勿忘草色(わすれなぐさいろ)」「若葉色(わかばいろ)」など植物由来の名前や「藍鉄(あいてつ)」「砂色(すないろ)」「赤銅色(しゃくどういろ)」など鉱物由来のものもあります。「鴇色(ときいろ)」「象牙色(ぞうげいろ)」など動物からとったものや、「東雲色(しののめいろ)」「虹色(にじいろ)」などの気象現象もあります。
 当たり前かもしれませんが、和色の名前は自然から取られているものが多いことに気付きます。初夏の草木のやわらかい緑を「若葉色」、夜明け前の空の色は「東雲色(しののめいろ)」というわけです。改めて、古来から日本人の生活は自然と共にあったということが分かります。
 私の色名に関する語彙はぺんてるの12色を大きく上回るものではありません。昔の日本人が930色の名前を使い分けていたとしたら、それは、本当に尊敬に値することだと思います。「石竹色」と「薄紅梅」の違いを感じるだけではなく、違いに基づいてモノを作ったりコミュニケーションに使ったりできるというのはすごいことです。2つの似た色でも隣り合わせれば、大抵は違いが分かります。でも、それぞれに違う名前を付けるというのは、また、意味が変わってきます。その名前に基づいた創作やコミュニケーションが可能になるということだからです。

名前を付けるということ

 さて、それでは「名前を付ける」とはどういうことでしょうか?それは、何かと何かを区別して理解するということです。「石竹色」は「薄紅梅」とは異なるということを宣言するために「石竹色」と名付けられています。しかし「「石竹色」より少し赤味が強いけど「薄紅梅」ほどではない」という色も存在します。「石竹色」と「薄紅梅」の中間色です。その色には少なくても和色では名前が付いていないようです。「石竹色」と「薄紅梅」の間には理論的には無限の色が含まれているはずです。名前を付けられた色については認識されますが、この間にある無限の色については普段認識されることはありません。ごっそりと取り漏らしてしまっているということです。
 もちろん、12色に比べれば930の和色の方がきめ細かな認識が可能ですが、自然界をそのまま表現しているとは言えません。コンピューター上で色を表現する方法の一つであるRGBでは「石竹色」はR:229 G:171 B:190と表されます。RGBは赤、緑、青の各色を0~255の数字で表し様々な色を表現する方法です。16,777,216色を表現できるので、930色と比べても遥かに多くの色を扱うことができます。しかし、赤,緑,青の各色を0~1023の数字で表すことも可能で、その場合は1,073,741,824色が表現可能になり、現行のRGBで表現できている色もほんの一部ということになります。これにはキリがなく、どこまでいっても私達が色を識別して表現しようとすると、一部分を切り取ったものにしかならないということです。
 とはいうものの、名前がついているお蔭で人間は創作やコミュニケーションが可能になったのも事実です。和色の名前はもちろんRGBの数列も名前の一種になりますが、このような名前を付ける行為は抽象化の典型的な例になります。抽象化することでコミュニケーションが可能になりますが、モノそのものは表すことができなくなってしまうのです。このような一長一短が抽象化という行為には付きまといます。

世界は抽象化で出来ている?

 色の名前に限らず私達が使う言葉にはすべて同じ性質があります。言葉も現実の世界を抽象化したものです。「好き」と「嫌い」の間には様々な感情があるはずです。同じ「好き」でも様々、同じ「嫌い」でも様々でしょう。「正しい」と「間違い」もすべてがどちらかに分けられるようなものではありません。ところが、私達の言葉で表すと単純化されてしまい、その言葉で表現できることに沿って行動も規程されてしまいます。言葉にはそのような限界もありますが、一方で言葉がなければコミュニケーションは非常に限られたものになってしまいます。
 「赤いリンゴを3個買ってきて」
 「赤い」という言葉は多くの人に共有されています。おなじように「リンゴ」も「3個」も「買う」も 抽象化された概念で多くの人に共有されているためコミュニケーションが可能になります。言葉を使ったコミュニケーションが可能になったので、人類は社会を作り、今のように発展することができたのです。抽象化は人が人であるための根本的な能力と言えます。

 では、言葉を持たない動物にはこの世界はどのように見えているのでしょう?
 動物は色に名前を付けることはありません。もちろん、自分の感情を言葉で表現することもありません。彼らは抽象化の恩恵、つまり言葉でコミュニケーションするということができません。しかし、彼らの認識は抽象化することで単純化されたり、切り捨てられることもありません。言葉の無い世界に住む彼らの方がこの世界をありのままに、完璧に認識しているとも言えます。12色や930色どころではなく、自然の色をそのまま体験しているのかもしれません。そして、それは「色」についてだけではないのです。

猫には色が見えていないと言いますが...

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 スマートフォンは今世紀最大のイノベーションとも言われますが、それは何故でしょう?iPhoneは確かに革新的な製品でしたが、何が新しかったのでしょうか?何故、Apple社はこのような製品を生み出すことができたのでしょう?

iPhoneの意味

 WWWが発明されインターネットの爆発的な普及が始まったのが1989年です。iPhoneの初号機が発売されたのが2007年なので、この20年弱はパソコンがインターネットへのアクセス手段になっていたということになります。今では、キーボードを打てない(打たない)年齢層がインターネットユーザーの中心ですが、そんな時代が20年も続いていたのです。特にWindows95発売以降、パソコンは急速に普及しインターネットという「もう一つの世界」が着々と作りこまれていきました。
 それでも、パソコンはビジネス上の必要性から購入する人が多く、特に関心の薄い人にとっては、無くても全く困らないモノだったと思います。ところがiPhoneの登場によってこの状況は一変します。2007年、インターネットにはあらゆる情報が集まっていました。企業や公共機関のホームページ、個人のブログ、ニュース、音楽や動画などのコンテンツ、ネットショップに決済サービス...これら「もう一つの世界」にすべての人がアクセスすることができる道を開いたのがiPhoneでした。もう、LANケーブルと悪戦苦闘する必要はありません。「ABC順」でも「あいうえお順」でもないキーボードに迷うこともありません。

 改めて考えてみると、iPhoneは電話機ということになっています。昔の固定電話は家の壁から伸びた電話線に繋がっていて、話しながらメモ帳に手を伸ばすのも大変でした。そのうち、コードレス電話機が登場し、家の中なら受話器だけを持って移動できるようになりました。受話器に本体機能も合体して、そのまま外に出かけられるようになったのがPHSや携帯電話です。iPhoneはこのような電話機の進化系なのでしょうか?
 それはYESでありNOでもあります。
 サービスの利用者という観点では、電話の利用者と同じ、老若男女あらゆる人を対象にしており、ビジネスでもプライベートでも利用されます。しかし、機能的な意味は電話とは大きく異なります。iPhoneは個人間の通話が優れているのではなく、インターネットへのアクセスが「いつでも」「どこでも」「誰でも」行えるという意味で優れているのであり、電話の進化とは別の意味を持っています。
 このYESとNOを同時にやってのけたこと、つまり、電話の利用者層にコンピュータのテクノロジーを重ねそのままインターネットアクセスプラットフォームにしたことが今世紀最大のイノベーションと言われる所以なのです。これはもちろん、ユーザーインターフェースやアプリケーション、iTunesなどの実装面でも優れていたので実現できたことです。

iPhone誕生における市場と技術の構造

Apple社の蓄積

暫定ダイナブックのGUI 1978年(wikipediaより SUMIM.ST)

 ジョブスは創業当初の1979年にゼロックスのパロアルト研究所を訪れていて、そこで見たアラン・ケイのGUIに強い印象を持っていました。ケイの「あらゆる世代の子どもたちのためのパーソナルコンピューター」というダイナブックの発想はコンピューターの進む方向を鮮明に示しており、ジョブスも大きな影響を受けたのです。誰でも使えるコンピューターという哲学は1985年にジョブスが追放された後のApple社にも受け継がれることになります。
 Apple社と言えばMacですが、誰でも手軽に操作できる、PDA(Personal Digital Assistant)やタブレット端末にも古くからチャレンジしていました。いつもスポットライトを浴びるMacとは対照的にこちらは日陰の存在でした。おまけに失敗が続きます。
 1990年には『ジェネラルマジック』計画がスタートし、タッチパネルを搭載した情報端末が構想されます。しかし、WWW以前の技術に基づいたサービスは直ぐに時代遅れになり、2002年にはApple社の出資で設立されたジェネラルマジック社も倒産してしまいます。1993年にApple社はNewTonというPDAを発売しますが、後発のPalm Pilotの方が価格も安く軽快に動作したため、完敗してしまいます。

Apple Newton (wikipediaより Work by Rama)

 2003年にはジョブスの肝いりでもう一度タブレット端末の検討が始まります。「ガラス製のディスプレイ」「マルチタッチ」「ソフトウェアキーボード」という発想はタブレット端末のために生まれました。しかし、当時のプロセッサー性能では実現困難でこの計画も中止になります。ところが、このチームにいたジョナサン・アイブ(現ロイヤル・カレッジ・オブ・アート総長)は計画が中止になった後もマルチタッチスクリーンの開発を続けていました。
 この、PDAやタブレット端末での失敗の連続が、アナロジカルデザインにおける「ベース」の蓄積になったのです。ある領域について具体的に分析しこれを総合することで本質的な意味や目的を捉えることがベースの蓄積になりますが、アイブとApple社はタブレット端末の失敗を通じて「誰でも使えるコンピューター」の本質を、この時点でかなり掴んでいたのではないでしょうか。

携帯電話へのチャレンジ

左:iPod 第四世代モデル(wikipediaより User:PRiMENON)
右:Motorola ROKR (wikipediaより Matt Ray)

 同じ頃、2000年代初頭は携帯電話が成熟期を迎えていました。携帯電話を作っていたのはノキアやエリクソン、モトローラーといった通信機メーカーです。コンピューターメーカーであるApple社でも製品化したばかりのiPodをケータイ化する計画が立ち上がります。そもそも、iPodはウォークマンに触発されて作られました。しかし、ウォークマンを開発した日本ではケータイが独自の進化を遂げ、メールにWeb閲覧、カメラや決済機能、そして音楽再生の機能も備えるようになっていたのです。iPodでウォークマンを出し抜いたと思っていた矢先に、日本のケータイに足元をすくわれる可能性が出てきたのです。iPodを通信端末化して日本のケータイがガラパゴスのうちにとどめを指しておきたいと考えるのは自然なことです。
 早速、巨人モトローラー社と組んでiTunes Playerを搭載した携帯電話を開発しました。しかし、この「ROKR」というケータイはiPodの洗練されたスタイリングとは全く異なり、10キーが並ぶ無骨なデザインでした。楽曲も100曲しか入らないなど、仕様も中途半端で全く売れませんでした。

 携帯電話のメーカーと組んでも革新的な製品はできない。そう思ったジョブスは周囲の説得もあり、ようやく自社で本格的に携帯電話を開発する決意を固めます。iPodのホイールスクロールで電話を作るのが最初の構想でした。この辺りがアナロジカルデザインにおけるターゲットの具体化と抽象化にあたるのではないでしょうか。携帯電話というターゲットに照準をさだめ、モトローラーとの協業などを通じて本質的な意味を探っていくプロセスです。
 「通信機メーカーと組んでもダメだ。彼らとではイノベーションは起こせない」
 「iPodのホイールスクロールは音楽再生には最適だが携帯電話にはいまいちだ」
 ビジネス面やユーザーインターフェースなど様々な領域で試行錯誤を行い、まだ、誰も気づいていない携帯電話の問題を発見する活動です。

パソコンから借りてくる?

 ジョナサン・アイブは2003年に立ち消えとなったマルチタッチスクリーンの開発をあきらめきれず、密かに研究を続けていました。このマルチタッチスクリーンを今度はパソコンであるMacのディスプレイにする計画でした。
 2006年のある時、アイブは二人だけでジョブスに会い、このMac用のディスプレイを見せました。今ではお馴染みになったピンチやスワイプ、慣性スクロールで自由に操作される様子を見ていたジョブスに閃いたアイデアは、その後の世界を変えるものでした。その場でiPodケータイの開発責任者に電話をかけ、アイブの作ったMac用のディスプレイでスマートフォンを作ることを命じたのです。このときこそ、今世紀最大のイノベーションが決定的になった瞬間でした。
 これがアナロジカルデザインにおけるマッチングに相当します。ベースとの違いからターゲットである携帯電話の問題を発見したのです。今までの携帯電話に欠けていた点とは、、、、そう「マルチタッチスクリーンが付いていない」ということです。そんな簡単なことに何故気づかないんだ?と思うかもしれません。タブレット端末でタッチスクリーンを開発していれば、携帯電話に応用するなんて誰でも発想できるだろう!けれども、それは、私達がiPhone以降のスマートフォンを知っているからです。
 電話機をイメージして思い浮かぶのは0から9までの数字です。ダイヤル式の時代もボタン式になってからも変わらずこの数字がありました。これで電話番号を入力することで相手と通話できる。当たり前で誰でも知っていることです。しかし、この電話番号というのがくせ者です。電話番号というのは強力な抽象化概念で、0~9の数字の組み合わせで世界中の人間と繋がることが可能なのです。この強力な概念は電話機のデザインはもとよりサービスの枠組みまでも規程していたのではないでしょうか。これを打ち破ったのはアナロジー思考だったのだと思います。携帯電話に求められていたのは、簡単で快適で合理的なユーザーインターフェースです。アイブの作ったパソコン用のユーザーインターフェースも同じ目的で作られていました。この目的レベルの類似性に気付くことで、パソコンの技術を「借りてくる」ことができ、電話機の強力なイメージを打ち破ることが出来たのです。

既にあるものからの創造

 ユーザーインターフェースが変わることで何が起きたのでしょう?もともとMac用に開発されたユーザーインターフェースなので、iPhoneではパソコンと同じことができるようになりました。これは期せずして携帯電話のユーザーがパソコンのユーザーになったということです。もし、Mac用のユーザーインターフェースではなく他のものだったら、例えば、ホイールスクロール形式が採用されていたら、スマートフォンは全く別のものになっていたでしょう。ユーザーインターフェースが変わることで、携帯電話はパソコンそのものになり、インターネットへのアクセスプラットフォームという新しい意味を持つことになったのです。
 ここで重要なのは、何か新しい製品を生み出したわけではないというです。iPhoneが変えたのは既に存在する携帯電話のユーザーインターフェースでした。
 これは、冒頭にお話しした「電話の利用者をそのままインターネットの利用者にした」ということになります。顧客はそのままに、別のサービスに移行させ、そのサービスにおけるビジネスを成立させてしまう。そこにiPhoneの凄みがあるのです。そのことに自覚的だったからこそiPhoneというネーミングになったのではないでしょうか。
 これには、まったく新しい観点から発想するアナロジー思考が大きな役割を担っています。電話機を電話機の延長として考え抜いても、利用者を別の世界に導くことはできません。アナロジー思考とそれを貫く勇気があったからこそ、ジョブスとApple社は既存のケータイ利用者をそのままもう一つの世界に連れ出すことに成功し、イノベーションを実現できたのです。


演習問題

(1)iPhoneのように既存の市場や利用者はそのままに、別の領域から技術要素などを適用した例は他にどのようなものがあるでしょう?

(2)今後、既存の市場や利用者はそのままに、別の領域から技術要素などを適用することで、新しい価値を持ち成長が見込める領域にはどのようなものがあるでしょう?

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 以前から漠然と「ラジオは無くならないのでは」と思っていました。テレビが衰退し、インターネットが更に進化しても、ラジオは聴かれ続けるように感じます。皆さんはどう思いますか?

ラジオ文化の定着

 初めてのラジオ放送は1906年の12月24日、クリスマスイブのことだったそうです。米国マサチューセッツ州の無線局からレジナルド・フェッセンデンが自分で演奏したクリスマスソングを放送しました。
 それからあっという間に世界中に広がったラジオネットワークは、事件を伝え、文化を作り、政治に利用されました。戦後は更に普及し、家庭にはその時代の最新技術と流行のデザインで作られた受信機が置かれました。

Philips Philetta

BRAUN TS3
BRAUN RT20

 写真は1950年代終わりころから、1960年代の初めにかけてヨーロッパで発売されたラジオです。ほんの数年ですが、この間でもデザインは大きく変化しています。
 ラジオがまだまだ高級品で「持つこと」に価値があり満足感につながった時代。一番古いPhilips Philettaはそんな頃のラジオの形を伝えています。シンメトリーで装飾的、リビングの一番目立つところで家族に囲まれているのが似合いそうです。しかし、モダンデザインの伝統があったドイツではすぐに直線的なデザインが取り入れられます。 BRAUN TS3では装飾性は極力排除されています。しかし、ダイヤルの配置などはまだ伝統的なスタイルを踏襲しています。 BRAUN RT20 になると、もはやシンメトリーではなくなり、木材や布が中心だったフロント部分も金属で覆われています。白一色で主張しないデザインはインテリアとしても目立つことはなかったでしょう。

 このようなデザインの変化は「ラジオを聴く」という文化が急速に変化したために起こったのではないでしょうか。もちろん、この時代でも「ラジオは聴くもの」だったのでしょうが、それに加えて、いいラジオを所有すること自体が楽しく誇らしいという人も多かったはずです。そういう人たちには、豪華で象徴的なデザインが好まれたのは理解できます。
 しかし、やはりラジオは聴くものなので、放送されている内容が重要です。流れてくる音楽やドラマやニュースがやはり肝心なのです。そうすると、生活の中でラジオの「受信機」が主役である必要は無くなってきます。生活の舞台であるインテリアに良く馴染み、操作が分かりやすく簡単であることが重要です。
 そんな意識の変化は外観のデザインにも反映されてきます。装飾を排除し、操作もシンプルにという「引き算のデザイン」が行われていきます。この「引き算のデザイン」はメディアとしてのラジオを浮かび上がらせます。「ラジオを聴くってそもそもどういうことなのか?」ということをもう一度考えるよう促されます。豪華な受信機を置くのが一番の目的ではなく、「ラジオではあのアーティストの音楽が聴ける」「ラジオを聴きながら家族と食事をする時間は最高だ」「ラジオで聴いた株を買って儲けることができた」だからラジオが必要なんだ、という理解が深まっていったのです。
 それは「サービス」としての「ラジオ」が本当の意味で定着していくということです。

引き算のデザイン

 「引き算のデザイン」はモノやサービスの本当の意味を浮かび上がらせます。ラジオをサービスとしてとらえたとき、それは今までにはない、革命的なサービスでした。国中の人に、時には国も越えて多くの人に、同時に同じ情報を伝えることができるようになったのです。
 ほどなくして、テレビが発明され映像も対象になりました。ラジオ局ではテレビ放送も行うようになります。そして、ラジオともテレビとも縁のないところでコンピューターが生まれます。コンピューターは相互に接続を始め、あっと言う間にインターネットが世界を覆いました。インターネットでは情報が双方向に流れます。個人対個人、企業対個人、企業対企業...複雑で大規模であらゆる産業が関連しており、全体を見通すことは、もはや困難です。
 そんな現代のメディアの本質も「引き算」することで見えてくるのでしょうか?

 もしかするとラジオはそんなメディアを「引き算」した究極の姿なのかもしれません。いくら技術が進んで形態が異なっても、メディアはどこか「ラジオ的」なものを残しているのではないでしょうか。

 1906年、夜空に放たれた電波は多くのアマチュア無線家たちに受け取られました。彼らは手製の受信機を念入りに組み立て、雑音の向こうから聞こえるクリスマスソングに耳を澄ませていました。日本のラジオ草創期にもアマチュア無線少年たちが大きな役割を果たします。組み立て式のラジオを作った彼らが最初の聴取者だったのです。そして、その部品は秋葉原の電気街で調達されました。
 電気街の発展はラジオの普及とともにありましたが、その後、秋葉原の主役はパソコン少年がとって代わります。もちろん、インターネットの扉をこじ開けたのはこのパソコン少年たちです。

 戦前から戦後にかけて手製のラジオを組み立てていたアマチュア無線家と1980年代に現れたパソコン少年たちは何でつながっているのでしょう?それぞれの時代での最新技術を駆使していることの満足感、機械部品やモノづくりへの嗜好というものもあります。しかし本質は、おそらく内向的であった彼らの、距離を超えて見知らぬ他者とコミュニケートしたいという欲望を満足させるのが、ラジオでありインターネットだったのではないでしょうか。
 肥大化し社会の様々なものを飲み込んで進化を続けるインターネットも「引き算」すると、見知らぬ他者とコミュニケートしたいというピュアな思いが本質にあるのかもしれません。Facebook、Instagram、Twitter...どれも見知らぬ他者とのコミュニケーションを実現するものです。そんなメディアの原型を最も忠実に残しているのはラジオということになります。だから「ラジオは無くならない」そんなふうに思うのかもしません。

 「引き算のデザイン」は製品の外観だけでなく、サービスの本質も思い出させてくれます。