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日本の伝統色「和色」

 色の名前を最初に覚えたのはいつだったでしょう?子供の頃に使った絵具からという人も多いと思います。「ぺんてる12色絵具セット」に入っているのは、しろ、きいろ、レモンいろ、きみどり、ビリジアン、あお、あいいろ、あか、しゅいろ、ちゃいろ、おうどいろ、くろになります。
 仕事をするようになって「和色」という日本の伝統色があることを知りました。こちらのサイトには全部で465の伝統色が登録されています。「赤」系統だけでも50色は超えるのではないでしょうか。これらの色は昔から染織物や絵画、焼き物などで使われていたそうで、改めて日本人の繊細さに感心させられます。名前もとても趣のあるものです。「珊瑚色(さんごいろ)」「薄柿(うすがき)」「勿忘草色(わすれなぐさいろ)」「若葉色(わかばいろ)」など植物由来の名前や「藍鉄(あいてつ)」「砂色(すないろ)」「赤銅色(しゃくどういろ)」など鉱物由来のものもあります。「鴇色(ときいろ)」「象牙色(ぞうげいろ)」など動物からとったものや、「東雲色(しののめいろ)」「虹色(にじいろ)」などの気象現象もあります。
 当たり前かもしれませんが、和色の名前は自然から取られているものが多いことに気付きます。初夏の草木のやわらかい緑を「若葉色」、夜明け前の空の色は「東雲色(しののめいろ)」というわけです。改めて、古来から日本人の生活は自然と共にあったということが分かります。
 私の色名に関する語彙はぺんてるの12色を大きく上回るものではありません。昔の日本人が400色以上の名前を使い分けていたとしたら、それは、本当に尊敬に値することだと思います。「石竹色」と「薄紅梅」の違いを感じるだけではなく、違いに基づいてモノを作ったりコミュニケーションに使ったりできるというのはすごいことです。2つの似た色でも隣り合わせれば、大抵は違いが分かります。でも、それぞれに違う名前を付けるというのは、また、意味が変わってきます。その名前に基づいた創作やコミュニケーションが可能になるということだからです。

名前を付けるということ

 さて、それでは「名前を付ける」とはどういうことでしょうか?それは、何かと何かを区別して理解するということです。「石竹色」は「薄紅梅」とは異なるということを宣言するために「石竹色」と名付けられています。しかし「「石竹色」より少し赤味が強いけど「薄紅梅」ほどではない」という色も存在します。「石竹色」と「薄紅梅」の中間色です。その色には少なくても和色では名前が付いていないようです。「石竹色」と「薄紅梅」の間には理論的には無限の色が含まれているはずです。名前を付けられた色については認識されますが、この間にある無限の色については普段認識されることはありません。ごっそりと取り漏らしてしまっているということです。
 もちろん、12色に比べれば465の和色の方がきめ細かな認識が可能ですが、自然界をそのまま表現しているとは言えません。コンピューター上で色を表現する方法の一つであるRGBでは「石竹色」はR:229 G:171 B:190と表されます。RGBは赤、緑、青の各色を0~255の数字で表し様々な色を表現する方法です。16,777,216色を表現できるので、465色と比べても遥かに多くの色を扱うことができます。しかし、赤,緑,青の各色を0~1023の数字で表すことも可能で、その場合は1,073,741,824色が表現可能になり、現行のRGBで表現できている色もほんの一部ということになります。これにはキリがなく、どこまでいっても私達が色を識別して表現しようとすると、一部分を切り取ったものにしかならないということです。
 とはいうものの、名前がついているお蔭で人間は創作やコミュニケーションが可能になったのも事実です。和色の名前はもちろんRGBの数列も名前の一種になりますが、このような名前を付ける行為は抽象化の典型的な例になります。抽象化することでコミュニケーションが可能になりますが、モノそのものは表すことができなくなってしまうのです。このような一長一短が抽象化という行為には付きまといます。

世界は抽象化で出来ている?

 色の名前に限らず私達が使う言葉にはすべて同じ性質があります。言葉も現実の世界を抽象化したものです。「好き」と「嫌い」の間には様々な感情があるはずです。同じ「好き」でも様々、同じ「嫌い」でも様々でしょう。「正しい」と「間違い」もすべてがどちらかに分けられるようなものではありません。ところが、私達の言葉で表すと単純化されてしまい、その言葉で表現できることに沿って行動も規程されてしまいます。言葉にはそのような限界もありますが、一方で言葉がなければコミュニケーションは非常に限られたものになってしまいます。
 「赤いリンゴを3個買ってきて」
 「赤い」という言葉は多くの人に共有されています。おなじように「リンゴ」も「3個」も「買う」も 抽象化された概念で多くの人に共有されているためコミュニケーションが可能になります。言葉を使ったコミュニケーションが可能になったので、人類は社会を作り、今のように発展することができたのです。抽象化は人が人であるための根本的な能力と言えます。

 では、言葉を持たない動物にはこの世界はどのように見えているのでしょう?
 動物は色に名前を付けることはありません。もちろん、自分の感情を言葉で表現することもありません。彼らは抽象化の恩恵、つまり言葉でコミュニケーションするということができません。しかし、彼らの認識は抽象化することで単純化されたり、切り捨てられることもありません。言葉の無い世界に住む彼らの方がこの世界をありのままに、完璧に認識しているとも言えます。12色や465色どころではなく、自然の色をそのまま体験しているのかもしれません。そして、それは「色」についてだけではないのです。

猫には色が見えていないと言いますが...

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 スマートフォンは今世紀最大のイノベーションとも言われますが、それは何故でしょう?iPhoneは確かに革新的な製品でしたが、何が新しかったのでしょうか?何故、Apple社はこのような製品を生み出すことができたのでしょう?

iPhoneの意味

 WWWが発明されインターネットの爆発的な普及が始まったのが1989年です。iPhoneの初号機が発売されたのが2007年なので、この20年弱はパソコンがインターネットへのアクセス手段になっていたということになります。今では、キーボードを打てない(打たない)年齢層がインターネットユーザーの中心ですが、そんな時代が20年も続いていたのです。特にWindows95発売以降、パソコンは急速に普及しインターネットという「もう一つの世界」が着々と作りこまれていきました。
 それでも、パソコンはビジネス上の必要性から購入する人が多く、特に関心の薄い人にとっては、無くても全く困らないモノだったと思います。ところがiPhoneの登場によってこの状況は一変します。2007年、インターネットにはあらゆる情報が集まっていました。企業や公共機関のホームページ、個人のブログ、ニュース、音楽や動画などのコンテンツ、ネットショップに決済サービス...これら「もう一つの世界」にすべての人がアクセスすることができる道を開いたのがiPhoneでした。もう、LANケーブルと悪戦苦闘する必要はありません。「ABC順」でも「あいうえお順」でもないキーボードに迷うこともありません。

 改めて考えてみると、iPhoneは電話機ということになっています。昔の固定電話は家の壁から伸びた電話線に繋がっていて、話しながらメモ帳に手を伸ばすのも大変でした。そのうち、コードレス電話機が登場し、家の中なら受話器だけを持って移動できるようになりました。受話器に本体機能も合体して、そのまま外に出かけられるようになったのがPHSや携帯電話です。iPhoneはこのような電話機の進化系なのでしょうか?
 それはYESでありNOでもあります。
 サービスの利用者という観点では、電話の利用者と同じ、老若男女あらゆる人を対象にしており、ビジネスでもプライベートでも利用されます。しかし、機能的な意味は電話とは大きく異なります。iPhoneは個人間の通話が優れているのではなく、インターネットへのアクセスが「いつでも」「どこでも」「誰でも」行えるという意味で優れているのであり、電話の進化とは別の意味を持っています。
 このYESとNOを同時にやってのけたこと、つまり、電話の利用者層にコンピュータのテクノロジーを重ねそのままインターネットアクセスプラットフォームにしたことが今世紀最大のイノベーションと言われる所以なのです。これはもちろん、ユーザーインターフェースやアプリケーション、iTunesなどの実装面でも優れていたので実現できたことです。

iPhone誕生における市場と技術の構造

Apple社の蓄積

暫定ダイナブックのGUI 1978年(wikipediaより SUMIM.ST)

 ジョブスは創業当初の1979年にゼロックスのパロアルト研究所を訪れていて、そこで見たアラン・ケイのGUIに強い印象を持っていました。ケイの「あらゆる世代の子どもたちのためのパーソナルコンピューター」というダイナブックの発想はコンピューターの進む方向を鮮明に示しており、ジョブスも大きな影響を受けたのです。誰でも使えるコンピューターという哲学は1985年にジョブスが追放された後のApple社にも受け継がれることになります。
 Apple社と言えばMacですが、誰でも手軽に操作できる、PDA(Personal Digital Assistant)やタブレット端末にも古くからチャレンジしていました。いつもスポットライトを浴びるMacとは対照的にこちらは日陰の存在でした。おまけに失敗が続きます。
 1990年には『ジェネラルマジック』計画がスタートし、タッチパネルを搭載した情報端末が構想されます。しかし、WWW以前の技術に基づいたサービスは直ぐに時代遅れになり、2002年にはApple社の出資で設立されたジェネラルマジック社も倒産してしまいます。1993年にApple社はNewTonというPDAを発売しますが、後発のPalm Pilotの方が価格も安く軽快に動作したため、完敗してしまいます。

Apple Newton (wikipediaより Work by Rama)

 2003年にはジョブスの肝いりでもう一度タブレット端末の検討が始まります。「ガラス製のディスプレイ」「マルチタッチ」「ソフトウェアキーボード」という発想はタブレット端末のために生まれました。しかし、当時のプロセッサー性能では実現困難でこの計画も中止になります。ところが、このチームにいたジョナサン・アイブ(現ロイヤル・カレッジ・オブ・アート総長)は計画が中止になった後もマルチタッチスクリーンの開発を続けていました。
 この、PDAやタブレット端末での失敗の連続が、アナロジカルデザインにおける「ベース」の蓄積になったのです。ある領域について具体的に分析しこれを総合することで本質的な意味や目的を捉えることがベースの蓄積になりますが、アイブとApple社はタブレット端末の失敗を通じて「誰でも使えるコンピューター」の本質を、この時点でかなり掴んでいたのではないでしょうか。

携帯電話へのチャレンジ

左:iPod 第四世代モデル(wikipediaより User:PRiMENON)
右:Motorola ROKR (wikipediaより Matt Ray)

 同じ頃、2000年代初頭は携帯電話が成熟期を迎えていました。携帯電話を作っていたのはノキアやエリクソン、モトローラーといった通信機メーカーです。コンピューターメーカーであるApple社でも製品化したばかりのiPodをケータイ化する計画が立ち上がります。そもそも、iPodはウォークマンに触発されて作られました。しかし、ウォークマンを開発した日本ではケータイが独自の進化を遂げ、メールにWeb閲覧、カメラや決済機能、そして音楽再生の機能も備えるようになっていたのです。iPodでウォークマンを出し抜いたと思っていた矢先に、日本のケータイに足元をすくわれる可能性が出てきたのです。iPodを通信端末化して日本のケータイがガラパゴスのうちにとどめを指しておきたいと考えるのは自然なことです。
 早速、巨人モトローラー社と組んでiTunes Playerを搭載した携帯電話を開発しました。しかし、この「ROKR」というケータイはiPodの洗練されたスタイリングとは全く異なり、10キーが並ぶ無骨なデザインでした。楽曲も100曲しか入らないなど、仕様も中途半端で全く売れませんでした。

 携帯電話のメーカーと組んでも革新的な製品はできない。そう思ったジョブスは周囲の説得もあり、ようやく自社で本格的に携帯電話を開発する決意を固めます。iPodのホイールスクロールで電話を作るのが最初の構想でした。この辺りがアナロジカルデザインにおけるターゲットの具体化と抽象化にあたるのではないでしょうか。携帯電話というターゲットに照準をさだめ、モトローラーとの協業などを通じて本質的な意味を探っていくプロセスです。
 「通信機メーカーと組んでもダメだ。彼らとではイノベーションは起こせない」
 「iPodのホイールスクロールは音楽再生には最適だが携帯電話にはいまいちだ」
 ビジネス面やユーザーインターフェースなど様々な領域で試行錯誤を行い、まだ、誰も気づいていない携帯電話の問題を発見する活動です。

パソコンから借りてくる?

 ジョナサン・アイブは2003年に立ち消えとなったマルチタッチスクリーンの開発をあきらめきれず、密かに研究を続けていました。このマルチタッチスクリーンを今度はパソコンであるMacのディスプレイにする計画でした。
 2006年のある時、アイブは二人だけでジョブスに会い、このMac用のディスプレイを見せました。今ではお馴染みになったピンチやスワイプ、慣性スクロールで自由に操作される様子を見ていたジョブスに閃いたアイデアは、その後の世界を変えるものでした。その場でiPodケータイの開発責任者に電話をかけ、アイブの作ったMac用のディスプレイでスマートフォンを作ることを命じたのです。このときこそ、今世紀最大のイノベーションが決定的になった瞬間でした。
 これがアナロジカルデザインにおけるマッチングに相当します。ベースとの違いからターゲットである携帯電話の問題を発見したのです。今までの携帯電話に欠けていた点とは、、、、そう「マルチタッチスクリーンが付いていない」ということです。そんな簡単なことに何故気づかないんだ?と思うかもしれません。タブレット端末でタッチスクリーンを開発していれば、携帯電話に応用するなんて誰でも発想できるだろう!けれども、それは、私達がiPhone以降のスマートフォンを知っているからです。
 電話機をイメージして思い浮かぶのは0から9までの数字です。ダイヤル式の時代もボタン式になってからも変わらずこの数字がありました。これで電話番号を入力することで相手と通話できる。当たり前で誰でも知っていることです。しかし、この電話番号というのがくせ者です。電話番号というのは強力な抽象化概念で、0~9の数字の組み合わせで世界中の人間と繋がることが可能なのです。この強力な概念は電話機のデザインはもとよりサービスの枠組みまでも規程していたのではないでしょうか。これを打ち破ったのはアナロジー思考だったのだと思います。携帯電話に求められていたのは、簡単で快適で合理的なユーザーインターフェースです。アイブの作ったパソコン用のユーザーインターフェースも同じ目的で作られていました。この目的レベルの類似性に気付くことで、パソコンの技術を「借りてくる」ことができ、電話機の強力なイメージを打ち破ることが出来たのです。

既にあるものからの創造

 ユーザーインターフェースが変わることで何が起きたのでしょう?もともとMac用に開発されたユーザーインターフェースなので、iPhoneではパソコンと同じことができるようになりました。これは期せずして携帯電話のユーザーがパソコンのユーザーになったということです。もし、Mac用のユーザーインターフェースではなく他のものだったら、例えば、ホイールスクロール形式が採用されていたら、スマートフォンは全く別のものになっていたでしょう。ユーザーインターフェースが変わることで、携帯電話はパソコンそのものになり、インターネットへのアクセスプラットフォームという新しい意味を持つことになったのです。
 ここで重要なのは、何か新しい製品を生み出したわけではないというです。iPhoneが変えたのは既に存在する携帯電話のユーザーインターフェースでした。
 これは、冒頭にお話しした「電話の利用者をそのままインターネットの利用者にした」ということになります。顧客はそのままに、別のサービスに移行させ、そのサービスにおけるビジネスを成立させてしまう。そこにiPhoneの凄みがあるのです。そのことに自覚的だったからこそiPhoneというネーミングになったのではないでしょうか。
 これには、まったく新しい観点から発想するアナロジー思考が大きな役割を担っています。電話機を電話機の延長として考え抜いても、利用者を別の世界に導くことはできません。アナロジー思考とそれを貫く勇気があったからこそ、ジョブスとApple社は既存のケータイ利用者をそのままもう一つの世界に連れ出すことに成功し、イノベーションを実現できたのです。


演習問題

(1)iPhoneのように既存の市場や利用者はそのままに、別の領域から技術要素などを適用した例は他にどのようなものがあるでしょう?

(2)今後、既存の市場や利用者はそのままに、別の領域から技術要素などを適用することで、新しい価値を持ち成長が見込める領域にはどのようなものがあるでしょう?

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 以前から漠然と「ラジオは無くならないのでは」と思っています。テレビが衰退し、インターネットが更に進化しても、ラジオは聴かれ続けるように感じます。皆さんはどう思いますか?

ラジオ文化の定着

 初めてのラジオ放送は1906年の12月24日、クリスマスイブのことだったそうです。米国マサチューセッツ州の無線局からレジナルド・フェッセンデンが自分で演奏したクリスマスソングを放送しました。
 それからあっという間に世界中に広がったラジオは、事件を伝え、文化を作り、政治に利用されました。戦後は更に普及し、家庭にはその時代の最新技術と流行のデザインで作られたラジオ受信機が置かれました。

Philips Philetta (1957)

BRAUN TS3 (1959)

BRAUN RT20 (1961)

 写真は1950年代終わりころから、1960年代の初めにかけてヨーロッパで発売されたラジオです。ほんの数年ですが、この間でもデザインは大きく変化しています。
 ラジオがまだまだ高級品で「持つこと」に価値があり満足感につながった時代。一番古いPhilips Philettaはそんな頃のラジオの形を伝えています。シンメトリーで装飾的、リビングの一番目立つところで家族に囲まれているのが似合いそうです。しかし、モダンデザインの伝統があったドイツではすぐに直線的なデザインが取り入れられます。 BRAUN TS3では装飾性は極力排除されています。しかし、ダイヤルの配置などはまだ伝統的なスタイルを踏襲しています。 BRAUN RT20 になると、もはやシンメトリーではなくなり、木材や布で作られていたフロント部分も金属で覆われています。白一色で主張しないシンプルなデザインは現在にも通じるものを感じます。

 このようなデザインの変化は「ラジオを聴く」という文化が急速に変化したために起こったのではないでしょうか。もちろん、この時代でも「ラジオは聴くもの」だったのでしょうが、それに加えて、いいラジオを所有すること自体が楽しく誇らしいという人も多かったはずです。そういう人たちには、豪華で象徴的なデザインが好まれたのは理解できます。
 しかし、やはりラジオは聴くものなので、放送されている内容が重要です。流れてくる音楽やドラマやニュースがやはり肝心なのです。そうすると、生活の中でラジオの「受信機」が主役である必要は無くなってきます。生活の舞台であるインテリアに良く馴染み、操作が分かりやすく簡単であることが重要です。
 そんな意識の変化は外観のデザインにも反映されてきます。装飾を排除し、操作もシンプルにという「引き算のデザイン」が行われていきます。この「引き算のデザイン」はメディアとしてのラジオを浮かび上がらせます。「ラジオを聴くってそもそもどういうことなのか?」ということをもう一度考えるようになります。豪華な受信機を置くのが目的ではなく、「ラジオではあのアーティストの音楽が聴ける」「ラジオを聴きながら家族と食事をする時間は最高だ」「ラジオで聴いた株を買って儲けることができた」だからラジオが必要なんだ、という理解が深まっていったのです。
 それは「サービス」としての「ラジオ」が本当の意味で定着していくということです。

引き算のデザイン

 「引き算のデザイン」はモノやサービスの本当の意味を浮かび上がらせます。ラジオをサービスとしてとらえたとき、それは今までにはない、革命的なサービスでした。国中の人に、時には国も越えて多くの人に、同時に同じ情報を伝えることができるようになったのです。
 ほどなくして、テレビが発明され映像も対象になりました。ラジオ局ではテレビ放送も行うようになります。そして、ラジオともテレビとも縁のないところでコンピューターが生まれます。コンピューターは相互に接続を始め、あっと言う間にインターネットが世界を覆いました。インターネットでは情報が双方向に流れます。個人対個人、企業対個人、企業対企業...複雑で大規模であらゆる産業が関連しており、全体を見通すことは、もはや困難です。
 そんな現代のメディアの本質も「引き算」することで見えてくるのでしょうか?

 もしかするとラジオはそんなメディアを「引き算」した究極の姿なのかもしれません。いくら技術が進んで形態が異なっても、メディアはどこか「ラジオ的」なものを残しているのではないでしょうか。

 1906年、夜空に放たれた電波は米国のアマチュア無線家たちに受け取られました。彼らは手製の受信機を念入りに組み立て、雑音の向こうから聞こえるクリスマスソングに耳を澄ませていました。日本のラジオ草創期にもアマチュア無線少年たちが大きな役割を果たします。組み立て式のラジオを作った彼らが日本で最初のラジオ聴取者だったのです。そして、組立ラジオの部品は秋葉原の電気街で調達されました。
 秋葉原電気街の発展はラジオの普及とともにありましたが、その後、秋葉原の主役はパソコン少年がとって替わります。もちろん、インターネットの扉をこじ開けたのはこのパソコン少年たちです。

 戦前から戦後にかけて手製のラジオを組み立てていたアマチュア無線家と1980年代に現れたパソコン少年たちは何でつながっているのでしょう?それぞれの時代での最新技術を駆使しているという満足感、機械部品やモノづくりへの嗜好というものもあります。しかし本質は、おそらく内向的であった彼らの、距離を超えて見知らぬ他者とコミュニケートしたいという欲望を満足させるのが、ラジオでありインターネットだったのではないでしょうか。
 肥大化し社会の様々なものを飲み込んで進化を続けるインターネットも「引き算」すると、見知らぬ他者とコミュニケートしたいというピュアな思いが本質にあるのかもしれません。Facebook、Instagram、Twitter...どれも見知らぬ他者とのコミュニケーションを実現するものです。そんなメディアの原型を最も忠実に残しているのはラジオということになります。だから「ラジオは無くならない」そんなふうに思うのかもしません。

 「引き算のデザイン」は製品の外観だけでなく、サービスの本質も思い出させてくれます。